わたしの「ふつう」はみんなと一緒?
わたしたちの社会には「ふつう」や「あたりまえ」が存在します。しかし、自分にとっての「ふつう」は、もしかすると、別の誰かにとっては「ふつう」でないかもしれません。自分の態度や思考を省みるために、自分とは異なる立場にある人の視点を借りることは重要です。視点をずらすと、何気なく受け入れてきた「ふつう」に疑問を感じたり、その疑問から社会の問題点がみえてきたりすることがあります。
一見「ふつう」のトイレ。だけど・・・
たとえば、トイレという使い慣れた場所から、社会の「ふつう」について考えてみることもできます。この写真は、(「ふつう」に考えれば)何の変哲もないトイレですが、もしこれを利用する人が車いすに乗っていたら、たった数センチの段差が障壁になるかもしれませんし、扉を開けることもできないかもしれません。もしこれを利用する人が視覚障害者だったら、洗浄スイッチがどこにあるかわからないかもしれませんし、そもそもそこにトイレがあることに気づけないかもしれません。
マークにも垣間見える「ふつう」への意識
さらに、トイレマークに注目してみることもできます。これは男女の性別を表すマークですが、その人型がこのような姿で描かれているのは、それが男女の(あるいは人間の)平均的な身体像とされているからです。もしこの男女マークが杖をついていたり、車いすに乗っていたりするデザインだったら、多くの人は「これはふつうのトイレなのか?」と混乱してしまうかもしれません。その背景には、わたしたちがいかに「ふつうの身体/ふつうでない身体」を区別しているかということが垣間見えます。
障害学を学ぶと「障害」のとらえ方が変わる
障害学という学問は、少し変わった視点から「障害」を定義しています。一般的に、障害とは「身体的・精神的欠損」であり、障害者が遭遇する不便や困難はすべてこの欠損によって引き起こされる、と理解されます。しかし、障害を個人に帰属した問題と捉えるだけでは、不便や困難を完全に解決することはできません。そこで障害学では、「障害者に不利益を生じさせる社会的障壁」こそが障害であるとみなします。無意識のうちに想定された「ふつう」や「あたりまえ」が障壁を生み出しているかもしれないと思い巡らせてみることは、社会の現状や、社会の中に生きる自分自身を考えることにもつながります。