報道やニュースは、事実だけを伝える「客観的」なもの?
報道やニュースは客観的でなければならないと広く信じられています。でも、「客観的」であることが、かえって冷たい印象を与えることがあります。たとえば、以下のような記事を考えてみます。
「4月12日午前8時5分ごろ、〇〇線の〇駅で、〇市〇区内の中学1年の女子生徒(12)が普通電車(15両編成)にはねられ、死亡した。女子生徒は都内の中学に入学した直後で、混雑する駅のホームでバランスを崩し、ホームに転落したらしい」
記事はたった数行です。中学受験という大変な苦労をして入った私立中学校。入学から数日後、慣れない電車通学の途上で命を落としてしまったこの事故に胸が痛みませんか。
ジャーナリズムは、被害者にどこまで寄り添うべきか
でも、それは、被害者に寄り添い過ぎた視点だという反論があるかもしれません。社会的には、事故によって何本の電車が遅れ、何人の足に影響したという事実が重要だという意見もあります。実際、記事のあとには、そうした情報が書かれていました。
人が亡くなるというのは、家族や周囲に大きなインパクトを与える出来事です。そして、娘や孫娘を持つ人たちにも決して他人事とは思えない事件のはずです。
リベラル・ジャーナリズムとパブリック・ジャーナリズムの違い
伝統的なジャーナリズム観では、読者や視聴者に「情報を伝える」ことが重視されます。情報を受け取った読者・視聴者が主体的に判断するという行為が大切なわけです。これをリベラル・ジャーナリズムと呼んだりします。しかし、こうしたジャーナリズムでは、報じっ放しで事態に責任を取らなかったりする傾向が指摘されたりします。こうした反省をもとに、共同体の一員として、人びととともに共感したり、社会変革することを重視するジャーナリズム観もあります。こちらは、パブリック・ジャーナリズムとか、シビック・ジャーナリズムとか呼ばれています。
新聞の報道が社会を変革した事例
たとえば、ある町に古い県立総合病院があったけれど、人口減少で診療科を縮小せざるを得なくなった。その一つとして産婦人科が廃止になるという出来事がありました。町の小さな新聞が、市民グループと一緒になってこの問題を取り上げ、結果として産婦人科は存続となりました。一方で、この新聞は、いわゆるコンビニ受診というあり方が医師の負担になっていることを取り上げ、それを控えようという運動も起こしました(兵庫県での実話です)。新聞が地域社会を実際に変革したのです。
リベラル・ジャーナリズムとパブリック・ジャーナリズムは、お互いの強みと弱みを補い合っています。「客観的」な報道が、ジャーナリズムのすべてではないことをご理解いただきましたか?
※2枚目の画像:diamondforce - stock.adobe.com