現在の課題も考察できる民俗学
民俗学はしばしば、昔話や妖怪など浮世離れした話題を扱う学問のように思われています。しかし実際の民俗学は、私たちの日常的な生活文化の成り立ちを、広い歴史的・地域的な視野をもって捉え直す学問です。この数年のコロナ禍において、私たちはそれまでの「当たり前」が通じなくなった日常を生きています。この状況から見つけられる民俗学の課題は多くあります。
コロナ禍での“移動”という行為
当たり前でなくなったことの一つに、通勤・通学や余暇などの日常の移動が挙げられます。ロックダウンや行動制限が実施され、ステイホームや在宅○○が合言葉になるなど、移動はリスクを伴う行為と考えられるようになりました。しかし考えてみると、そこで忌避されたのは、公共交通機関によく見られるような、狭い空間に多くの人を密閉して運ぶことだったのではないでしょうか。いつの間にか「空間ごと運ばれる」のが当たり前の移動の姿になっていたのです。
生活空間の広がりにより失ったもの
民俗学者の福田アジオは「明治町村制の市町村は、住民が徒歩あるいは自転車で行き来できる範囲であり、そこに共同性の範囲があった」と述べていました。しかし産業構造が転換し、仕事と家庭が分離され、市場に流通する商品とサービスに依存する生活が一般的になって、人びとの生活に要する空間は格段に広がりました。ただし「交通戦争」「通勤地獄」等と形容されたように、日常の移動は苦痛や退屈なものと見なされ、いかに目的地に早く着くかばかりが重視されるようになりました。すなわち空間よりも時間が優越する感覚が支配的になったのです。それは「人々が深く感情的かつ心理的に結びついている人間存在の根源」としての空間の「場所性」(E. レルフ)の喪失と言えるかもしれません。
これからの社会も民俗学の視点で
しかし現在、コロナ後の新しい生活はもちろんのこと、超高齢社会における交通弱者への配慮や、カーボンニュートラル社会の実現などといった社会問題と関わって、私たちは、日常の移動のあるべき姿を再考する必要に迫られています。電車や自動車が支配する移動システムを相対化し、それらに過度に依存せずとも生きられる社会のあり方を考えるのも、民俗学の課題だと言えます。