身近なヤマトタケル
ヤマトタケルという人物を知っていますか? これまで小説・マンガ・アニメ・映画・歌舞伎・オペラなどの題材として、たびたび取り上げられてきました。最近ではゲームのキャラクターにもなっているようです。ここでは、ヤマトタケルの物語について歴史学の観点からお話しいたします。
「悲劇の英雄」としての人物像
ヤマトタケルは、天皇の子として大和に生まれました。荒々しい性格だったため、天皇は九州の勢力を討つように命じました。ただし、それは建前であり、実際は体裁よく遠くに追いやったのでした。九州から戻ってきたヤマトタケルに対し、天皇は休む間もなく東国の平定を命じました。ヤマトタケルは「きっと天皇は自分なんか死んでしまえばいいと思っているのだ…」と愚痴を言い、泣きながら旅立ちました。東国では苦難の連続でしたが、やっとのことで平定を成し遂げました。しかし、大和へ帰還する途中、山の神と戦って敗北し、そのダメージがもとで死んでしまいました。それでも故郷への思いが断ち切れず、魂は白鳥になって帰っていきました。
「立派な将軍」から「天皇」まで
これは、『古事記』に記された物語です。そこからは、父に認めてもらいたい一心で奮闘したものの、故郷に戻ることなく亡くなった「悲劇の英雄」としての人物像が読み取れます。ところが、『日本書紀』ではまた違う姿で描かれています。東国が乱れていることを聞いた天皇が、誰を派遣すべきかを家来たちに問うたところ、ヤマトタケルは雄叫びをしながら名乗り出て、勇ましく出発していきます。天皇は「お前は我が子として生まれてきたが、本当は神に違いない!」と大絶賛して送り出します。ここに描かれているのは、「立派な将軍」としての人物像です。さらに、『風土記』には「ヤマトタケル天皇」が登場します。『古事記』や『日本書紀』では一人の皇族に過ぎなかったのが、『風土記』ではついに天皇にまでなってしまったのです。
「歴史」は一つだけではない
以上に挙げた3つの書物は、ほぼ同じ8世紀前半につくられました。では、いったいどのヤマトタケルが本物なのでしょうか? 実はどれも「本物」です。というのは、3つの書物はつくられた目的、ベースにした素材、書いた人などが異なるからです。『古事記』と『日本書紀』は国家が編纂した歴史書であるのに対し、『風土記』は地域の神話・伝承を集めたものです。最近では『日本書紀』こそが正式な歴史書であり、『古事記』はその材料の一つだったとする説も有力です。つまり、それぞれの立場で何を調べ、何を考え、どのような「歴史」を後世に伝えようとしたのかによって、人物の描き方にも違いが生じたと言えます。ヤマトタケルの物語は、「歴史」が必ずしも一つではないことをわれわれに教えてくれるのです。